藤原鎌足が「望月の 欠けたることも 無しと思へば」と詠んだ夜もこのように月が光り輝いていたのだろうか。これだけ建物が密集し町が明るい時代でもこんなにも存在感があるのだから、あの平安の世ではそれはもう、いま私が見ている月よりも、何倍も美しかったであろう。
視界に占める月の存在感があまりにも大きくてつい笑ってしまう。私はいま、月を眺めて微笑んでいる人になっている。きっと時を同じくして、月を見上げて微笑んでいる人がたくさんいるだろう。明るすぎてもはやウサギは見えないけれど、月が明るいというだけでなんだか面白いような気がしてくる。家を空けている家族に「月やばい」「見た?」とLINEを送った。
お出かけから帰宅し、荷物を置いた代わりにカメラを持っていそいそとまた外に出る。私は望遠カメラを必要とする写真を基本撮らないので、持っているレンズで一番ズームできるのは18-135mmである。ISO感度をギリギリまで下げ、シャッタースピードを上げて撮る。数年前に月が綺麗で散歩に行ったときに試行錯誤した結果の撮り方だ。周りが暗いからと闇雲に感度を上げればいいというものではないことをそのときに知った。135mmはそこまでズームではないので、撮れた写真をiPhoneの切り抜きでさらにクロップする。これがギリギリ。それでもクレーターがしっかりと写っているのだからすごい。カメラの進歩は凄まじい。

月が明るい、というだけで誰かと盛り上がれるのだからこの世は平和だ。千年前から変わらない、普遍の話題。ついこの間、ゆる言語学ラジオで「天気の話題が雑談では最強の話題である」という話を見聞きしたが、まさにこれだなあ、と思った。