遠い山に雪

生活における瑣末なことあれこれを書きます

雪のように積もる想いを代わりに

原作はもちろんアニメも見たしゲームも買ってプレイしたしゲーム特典か何かの100名にだけ当たるカードセットもGETしたくらい大好きだったのに、引っ越しやら進学やらのタイミングが重なって最後まで読まずに離れてしまっていた「学園アリス」を最近読み返している。いまは26巻まで読み終わって、あと残りは5巻分くらい。ここから急速に話が進みそうだなと思っているが、この作品はその予想通りというかむしろ予想以上の展開を重ね続けて26巻までぐんぐんと進んできたので、このあとも気を抜けない。昨日は13〜25巻あたりを一気に読み、シリアス展開もラブコメ展開も大量に摂取した結果、怒涛の感情や思考が押し寄せたのでいったん26巻まで読んで感じたこと・思ったことを書こうと思う。完全にただのオタクの感想なので、読みたい人だけ読んでください。(考察とかはありません)

作家は知っている感情しか書けないのか

長らくジャンプ系を中心とした少年・青年漫画をメインに読んでいたこともあり、久しぶりの少女漫画を読んで思ったのは、「感情表現がすごい…!」だった。こんなに丁寧に登場人物の思いが描写されてたんだ……。特に学園アリスは絵だけじゃなくセリフやモノローグなどの言葉でも描写が細かくて、言語優位の自分には読みやすくてありがたい。蜜柑と蛍の関係、蜜柑と棗の関係、蜜柑と流架の関係、流架と棗の関係などなど、複雑で繊細であったかい関係がたっっっくさん詰め込まれていて、そうだった、これが少女漫画の面白さだった…!と思い出せた。し、大人になったいま読み返すと子供側にも大人側にも共感できて、昔よりもさらに面白く感じてページを捲る手が止まらなかった。

そして、何よりもこの物語を"描いた"=作った人がいるという驚き。樋口橘先生すごすぎる。

よく「作家は知っているものしか書けない」という言葉を耳にするが、もしそれが本当であれば、樋口橘先生は、棗の蜜柑への強くて熱い思いや流架の大切な人たちへの柔らかくて暖かい思いを体験してきたのだろうか。ペルソナが抱えた孤独と苦しみも、柚香が行平に向けた苦しい思いも、大切な人を人質に取られる絶望も経験したのだろうか。わたしはおそらく感情が乏しいほうの人間なので、作品の中に描写されている彼女らのさまざまな思いを、実感を伴って共感したり感じきれていないなと思っている。それがなんだか作品を100%堪能しきれていない気がして悔しくもあり、それでもこんなに強烈にこころに残る物語に出会えたことに感動してもいる。

「作家は知っていることしか書けない論」について少し調べてみたが、「今まで経験してきた感情を応用して体験したことがないことでも体験してきたかのように書ける」という意見をみつけて、なるほどなと思った。誰かをまっすぐに思う気持ちとか、誰かに強く思われるけれどその気持ちを受け止められない切なさとか、誰かを失う悲しみとか、誰かへの執着心とか、命を賭してでも守りたいものがいる強い気持ちとか、この作品で表現されているさまざまな気持ちのかけらをきっと樋口橘先生は経験してきて、それを増幅させたりこね回したり想像の海に落としてみたりと応用して「学園アリス」という物語に落とし込んだのかもしれない。それにしたって、誰が誰に向けるどの感情も痛いほど伝わってくるのがすごい。キャラの表情、背景、セリフ、言葉選び、コマの構成、キャラクターの造形、ストーリーの構成、いろいろなことが組み合わさってこんなに面白い作品が出来上がっている。漫画家さんってすごいんだなあ。

子供だからこその納得感

舞台設定も秀逸だと思った。特別な能力を持つ選ばれた子供だけが集められた閉鎖的な学園、という設定と主人公たちが子供であるからこそ、作品の中で起きるさまざまな事件に蜜柑たちが感情だけで突っ走っていく危うい姿に納得できる。だってあの子たちまだ11歳とか14歳とかだよ。殿内ですら高校生よ。そりゃあ目の前の大切なもののために無茶で無鉄砲なことをしでかすよ。でも、子供だからこそそうしてまっすぐに愚直にぶつかっていける。大好きな人と泣いて笑って喧嘩してつらい思いもして成長できる。大切なもので頭をいっぱいにできる。作品を通してずっと樋口橘先生の描写があまりにも丁寧で、「学園アリス」とは予定調和なフィクションではなく、彼ら彼女らの「物語」であることを実感させてくれる。鳴海先生をはじめみんなが蜜柑に一筋の光を見たように、私も学園アリスに希望と幸せをもらった。

大人になることと人生の苦さ

物語が進むにつれて、蜜柑たち子供だけの話ではなく、大人世代も深く関わってくるようになる。愛した人に置いていかれ、愛も恋もまたわからなくなってしまった鳴海先生や、目に入れても痛くないほど可愛がっていた弟を失った高校長、行平や馨先輩の意思を継いで自ら闇に進んでいった柚香など、大人たちの描写は蜜柑たち子供と違って複雑で苦くつらいものが多い。行平と柚香を失ってから鳴海のこころは空っぽの宙ぶらりんになり、蜜柑に出会うまでは荒んだ心を隠して生きていた。大人になると、この世界は0か100か、白か黒かではっきりさせられないことばかりだということに気付く。いろんなことが宙ぶらりんになって、つらいことも苦しいこともあって、でもずっと人生は続いていくし、逆にどれだけこの先を願っていたとしても突然終わりがくることも経験する。思いだけでは乗り越えられない壁があることを知る。生き残った人たちは、そのうちその苦さにも慣れて、自分の感情や大切なことから目を逸らして生きるようになっていく。痛みや苦しみを直視しないように、少しずつ何かを諦めるようになっていく。それが大人になるということなのかもしれないけれど、それなら私は大人になんてなりたくない、と思った。でも、学園アリスに出てくるみんなは行平や蜜柑に会って変わった。おかしいことはおかしいと、悪のループは断ち切らなければならないと少しずつ心を取り戻していった。蜜柑たち子供にはできない、ひろく連帯と連携をしながら水面下で反旗の狼煙をあげる準備を進めていた。その規模と作戦の複雑さは大人だからできることだな、と思った。蜜柑たちとは違う戦い方だけど、目指すところは同じ。20巻あたりで子供たちと大人たちが手を取り合ったところを見て、きっとこの先まだまだつらいことが続くのだろうけれど、それでもきっと未来は明るいのだ、と思えた。蜜柑たちなら大丈夫かもしれない。そんな希望を持った。きっとここから最後まで怒涛の物語が続く。私はすべてを読み終わった時に何を思うだろうか。あと5巻、心して読みます。