遠い山に雪

生活における瑣末なことあれこれを書きます

この感情の名前を知る

歌とか漫画とか、Twitterのつぶやきもそうだけど、他人が表現した何かに触れたとき、「あ、この感情知ってる」と思うことがある。

私は自分の感情を把握するのが苦手だという自覚がある。子供だった頃の自分には快不快・喜怒哀楽くらいしかなかった気がする(ということにすら最近思い至った)。ちなみに自分の気持ちもわからなければ他人の気持ちもわからない。他人の悩みを聞いて一緒に悩める、悲しめる気持ちが一切わからない。こんなに物語が好きなのに、小説や映画で泣いたことは一度もない。

なぜこんなに感情の把握が苦手なのか、共感性が低いのかは今でもわからない。私の家族は私以外はみんな映画を見て泣くタイプだし、他人の悩みを聞いて心が苦しくなるらしい。家族の中でも私だけがいつも異質だった。

小さい頃からコンテンツに触れるのが大好きで、絵本から漫画、小説、映画と創作物に触れ続けてきた。四六時中、時には歩きながらも本を読みすぎて怒られるくらい読書をしていた子供だった。映画もアニメ映画から邦画、洋画もけっこう観た。触れてきたコンテンツの中でも「これはそんなに面白くなかったな」とか「これめっちゃ好き!何度も見たい!」と思う、好みのようなものが確かにあって、でもそれ以上詳細に気持ちを分析することはできなかった。自分の気持ちがいまいちわからない。だから、読書量が学年一でも読書感想文は苦手だった。「面白いか面白くないか」しかわからないから。感情がわからないのはずっと子供で発展途上な気がして、そんな自分が少し悔しい。

それから大学生になって人との関わりが爆発的に増え、さまざまな人間関係に揉まれた結果、今では感情の種類がずいぶん増えた。創作物で描写されたたくさんの感情に触れて、自分の感情に名前をつけられるようになった。今ではなんとなくエモい気持ちとか、誰か近しい人や好きな人に良いことがあったら自分も嬉しくなるという気持ちがわかる(時もある)し、まだ物語に感動して涙を流すことはないけれど「謎のくそでか感情が湧いてくるな〜」くらいはわかるようになった。それが感動というものなのもなんとなく知っている。それも最近は「エモい」とか「尊い」とかでだいたい表現できるので重宝している。特定のキャラクターが物語のなかで楽しそうにしていると「ずっとそのまま幸せでいて…!」と願う気持ちも湧いてくる。2年前には推しの卒業ライブを観て生まれて初めて感極まって泣いた。推しのこれまでの歩んだ道に思いを馳せてみると、今までつらいことや悔しいことがたくさんあっただろうなと思い至って、でも計り知れない努力や試行錯誤をがむしゃらに続けて、卒業を迎えたこの日はたくさんの人に囲まれてしっかり笑顔で前を向いていて、推しが幸せな気持ちでこの日を迎えられたことがとにかく嬉しかった。自然と涙がこぼれていた。これが、感情……。

こんな感情、昔は知らなかった。昔は自分の気持ちしか見てなかった。その見えている気持ちすら解像度が低すぎて大雑把なことしかわからなかった。

人生を過ごしながらじわじわと感情の解像度が上がっていくのは面白い体験だ。数ヶ月前はわからなかった感情が、ふとわかる瞬間がある。これが周りの言うあれのことなのかも、と思える時がある。コンテンツに触れて触れて触れ続けて、ある時に、「ああこの感情、知ってる」と気付く瞬間がある。それが楽しい。あの頃は6種類くらいしかなかった感情が今では20種類くらいになった。良い気持ちも嫌な気持ちもたくさん細分化されていっての約20種類。実際はもうちょっと細分化されたかもしれない。コンテンツに触れた時、そこに描かれている感情に共感できるのが楽しい。まだまだ実在の身近な人たちにはなかなか共感できないけれど、いつか"わかる"時がくるのかもしれないと思うとこれからが楽しみだ。